原発論アンケートTen!!

〈雪月花への核ごみみそぎ〉列島運動

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原発どうする会本部

第8問【雪月花】

史書の背景

(や) すでに2017年に増田悦佐先生が『米中地獄の道行き 大国主義の悲惨な末路』(ビジネス社) を著してゐます。今の新型コロナ騒動は、かへつて、米国や中国の“たいへんな”状況を、隠すことになつてゐるのではないか。わたしどもには、さう思へてなりません。
この先、米国にも、中国にも、頼れぬ日本民衆が、おたがひの個性と能力をどう発揮しあつてゆくか。超長期方針からすると、縄文時代からの日本民俗の再発見や、今までの日本史記述の見直しが、必要でせう。
たとへば、戦前の皇国史観は、どうも、山縣有朋らが、日本神話をイエズス会のやうに一神教化すべく、策動したやうです。
一般に、学界の静かな活動と思はれがちな歴史記述といふものも、古来、国際政治や国際金融などの要請から、巧妙に創作されてゐる、といふところが、事実のやうです。
たとへば、あまてらすおほみかみ (天照大神) といふ神名じたい、7世紀の第40代天武天皇あたりが、新設したものなのかもしれません。〈天皇〉といふ称号とともに。
むろん、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命が初代の伊勢斎宮です。が、その伊勢斎宮じたい、今の伊勢神宮の宮川あたりでなく、松坂市近くの櫛田川あたりにあつたやうです。天武天皇が発案された式年遷宮以降、実に、第96代後醍醐天皇のころまで、宮川あたりの伊勢神宮と櫛田川あたりの伊勢斎宮が、並存してゐたのかもしれません。
このあたりのことは、宗教民俗学と神話学を中心とする鳥越憲三郎先生が、『伊勢神宮の原像』(講談社1973年) にて、精緻に考証してをられます。
そしてここからは、わたしどもの憶測にすぎませんが、天武天皇より前の伊勢斎宮は、あるいは、元伊勢たる丹後の籠(この)神社にも由来する、別の神名を祀(まつ)つてゐたのではないか。太陽女神といふ同傾向ではあつても…
『日本書紀』『万葉集』『古事記』の背景に、縄文時代・弥生時代からのどういふ事実があつたか。考古学・民俗学・生産史学・芸術史学・神話学・日本語学・経済学・氏姓学・政治学・民族学・宗教学などを駆使し、考証してゆく。なほ、『万葉集』は、史書ではありませんが、正史にて表明できなかつた想ひを、文学形式にて表明した、といふ説もあります。
太古各部族のさまざまな伝承が、どう現実的あるいは架空的に編集され、『日本書紀』などが成立したか。
かういふ地道な研究によつてこそ、日本列島が相対的に自然環境に恵まれた楽園であり (地震・噴火・台風などにはひれ伏しつつも)、それゆゑ、日本民族のこころは相対的に平和であり、これからの諸民族調和へ日本民族としてどう貢献してゆけるか。かういふことが、よりよくわかつてくると、思ひます。これが、JOMONあかでみぃの研究です。

生理聖人へ協同

(や)「だいぢゃうぶだぁ」の人が大丈夫でなく、一定の覚悟をしたかもしれない日本国民…
新型コロナウイルスに対する人間の生体防御力を、どう高めあふか。
おたがひの健康平和な生活を生産しあふ経済へ、どう再編していくか。
以上において、TOKYO2020のあり方をどう考へるか。
世界と日本は、この目標に集中したいものです。
わたしは今、ある気づきがあり、わたしにとり、もっとも大切な本、沖 正弘『生きている宗教の発見~だれでも悟り救われる沖ヨガ修行法』(竹井出版1985年) を (何十回めの) 再々読をしてゐます。その気づきに向け、わたしなりの表現にて重要メモを記しつつ。メモの内容を深くご理解いただくには、むろん、多くの補足説明が要りますが、ここではあへて、メモをそのまま公開させていただきます。

苦しみ悩みにお詫びする。さうしつつ、生理にしたがふ。そのやう、おたがひを、生かさせていただきます。これを、求道(ぐだう)と言ふ。自身の生活の範囲にゐる、人間や他生物。そのすべての細胞の、代謝につき、それらの、健康な調和をこそ、冥想させていただきます。自他の生理にしたがはぬ、道徳としての罪。それを、しだいしだいに、すすいでゆきあふ。
神経と筋肉へのO2の流通。呼吸調整法としての、修正法。都市生活の野性化。保健としての道徳。それを確立していく安心。
〈生理にしたがふ、個性別の道徳〉。それを推進する、協会と公会。生体と認識の個性。それを反映する、個性別の道徳。たるべし。ひとりひとりの個性別な、求道実行。それなくして、社会の統一なし。一方、おたがひの生活を、健康平和化していくこと。それなくして、個人の満足もなし。
道徳共同体の創造。人間社会の健康平和化のみを、欲求する悦び。
諸国家の伝統や、諸思想の伝統。それには、ひとりひとりの生命運動を、抑圧してゐる面も、ある。だから、さういふ伝統の、はからひやとらはれから、解脱していくこと。それも、生命運動を、解放する。人間は、生命運動を、認識により、運営してゐます。この数千年間の、諸部族や諸民族どうしの闘争。それにおいて、認識が、自他の生命運動を、抑圧してゐる面も、あります。それこそが、迷ひである。自他の生命運動を、解放していく、求道実行。ひいては、諸民族調和こそが、望ましいです。
世界の諸分野について、個性別に、〈健康平和な現実認識〉を、みづから、追究しあふ。人間社会を健康平和化していく。そのやう、学問を、整理する。物理の必然。それを確信し、それにて安心する。とともに、個性別の道徳。それへの意志を誓ひ、それにて安定する。
資産増殖を競争しあふ、人間社会。から、健康平和な生活を、追究しあふ人間社会。へ。資産を所有する、個人による、契約社会。つまり、権利と義務から、おたがひの体内に、注意しあふ、個人による、守りあひ社会。つまり、人情と義理へ。〈聖なる重厚さの、次体制=諸民族調和〉。それへの、合掌。〈俗なる軽薄さの、現体制=金融闘争〉。それから、解脱していく、修業。姿勢動作と、呼吸と、食事と、人間関係と、精神と、生活環境の、修正。地球公会協会創造提案。生理聖人へ協同。生理にしたがふ。さういふ、聖なる人格へと、めざしあひませう。そのやう協同させていただきます。

新しい日本史観

(や) 人間社会全体における生産発達とは区別し、諸民族の芸術や道徳の興隆と衰退について、反省する。むしろ、さういふ方向性にて、わが日本民族史を記述し直すべきではないか。もともとは、西洋美術史がご専門の、田中英道先生が、『新しい日本史観の教科書~正しい歴史に「修正」せよ』(ビジネス社2019年11月) において、さう主張されてゐるやうです。あらゆる歴史観を周到に比較検討し、今の日本社会における日本史学や日本史教育の残念ながらの貧困を、指摘してゐます。
19世紀のヘーゲルやマルクスは、〈必然と意志〉の問題を深く深く考究した、わたしどもの先達です。この点、わたしどもと田中英道先生は、あるいは、根本の立場が異るかもしれません。が、当面の主要問題としては、以下にご説明する理由により、田中英道先生の方向性に、賛同いたします。
人間社会における伝統と創造について、わたしどもによる認識と行動は、かうです。
諸民族闘争の伝統を認識し、諸民族調和への創造を行動する。ただし、ヘーゲルのやうにまだ国家にとらはれてゐたのでは、諸民族調和への創造を行動できない。
人間社会全体における資産階級格差の拡大伝統を認識し、これの縮小創造を行動する。ただし、マルクスのやうにまだ所有革命にとらはれてゐたのでは、かへつて、これの縮小創造を行動できない。
以上のうち、諸民族調和への創造を行動するにあたり、当面の主要問題としてこそ、田中英道先生の方向性に、わたしどもは賛同いたします。諸民族とくに自民族の芸術や道徳の興隆と衰退について、反省しなければ、諸民族調和への創造を行動できません。また、現代の資産増殖競争への思考が、古来のおたがひの健康平和な生活への情感や情念を弱めてゐる面もあり、芸術や道徳の現代における〈衰退〉こそを、反省する。さういふことでもあります。
なほ、19世紀以降に流行した歴史学が、各民族内に同様の発展図式があるかに誤解し、現象認識についても構造認識についても、かなり不毛な議論となつた根因は、意外にも、マルクスの盟友であつたエンゲルスに、あるやうです。ヘーゲルやマルクスの関心は、決して、各民族内それぞれの歴史ではなく、人間社会全体の歴史たる〈世界史〉でした。

(滝村隆一『国家論大綱 第一巻 上』勁草書房2003年・337ペより) …彼 (註・エンゲルス) の発展史観への方法的無理解は、後のマルクス主義者たちに、決定的ともいえる学的・理論的な悪影響を、与えるところとなった。
〈原始的→アジア的→古代的→中世的→近代的〉、という世界史の発展史観が、〈アジア的〉段階を脱落させたうえで、何と、〈これらの発展段階は、あらゆる個別歴史社会において必然的に継起する〉、と解釈されて振り回されたのである。しかしこれは、もはや〈世界史の発展史観〉ではなくて、〈個別歴史的な発展史観〉への曲解と矮小化にほかならない。また、これによって、学的・理論的な方法としての世界史の発展史観は、「歴史学」、正確には個別実証史学の学的方法へとすり替えられ、大きく歪曲されることにもなった。
しかしそうなると、厳然たる歴史的な結果的な事実として、どの個別的社会の歴史的発展をみても、この意味での〈継起的な段階的発展〉を経過していない。…

(や) この意味にて、エンゲルスからの「マルクス主義歴史学」は誤りであつたと、わたしどもも考へます。
さて、わたしどもは、ヘーゲルやマルクスを継承し発達させ、〈必然と意志〉の問題を、かう考へます。
人間の生活や人生には、個人的に道徳の意志があり、協会的に経営の意志があり、将来は、地球公会を発達させていく意志も、あるでせう。さういふ人間の生活や人生は、何に支へられてゐるか。認識理(り)の必然、ないし生理の必然、ないし物理の必然に、支へられてゐます。
山田 学著〈学問本質論〉(JOMONあかでみぃサイト「理念集」画面内) から再録します。

(〈学問本質論〉2ペより) 世界は現象において偶然と意志があり本質において必然がある。世界には主体的から客体的へ道徳と経営と公会発達と認識理と生理と物理といふ分野がある。主体すなはち体内にもとづき病的戦争と健康平和がある。健康平和な現実認識の保育・教育・保健 (の運営・指導)・看護・医療が理想である。諸民族伝統には必然があり諸民族調和へ創造する意志が理想である。個人には受精と生誕から死亡までの物理と生理と認識理がある。

(や) 戦後の日本社会にて流行り、今も日本史教育などに影響力が遺る「マルクス主義歴史学」からは解脱し、ヘーゲルやマルクスをまともに継承し発達させたいものです。
諸民族調和と資産階級格差縮小のために。
ヘーゲルは、キリスト教の哲学的な完成者であり、マルクスは、それへの批判者であつた。わたしどもは、さう観ます。
そして冒頭に紹介した、田中英道先生が、先生の別の書にて、キリスト教について、かう指摘してゐます。

(田中英道『日本人が知らない日本の道徳』ビジネス社2016年・169ペより) …旧約聖書のアダムとエバから罪を受け継いでいる人間はすべて、生まれながらにして罪人(つみびと)だという「原罪」の概念があります。
アダムとエバの罪というのは、旧約聖書冒頭の「創世記」に描かれるエピソードから来ています。神によって最初に創られた人間アダムとエバが、悪魔である蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまい、神との契約を冒したということで楽園を追放されるのです。ここで犯した罪を、すべての人間が逃れることができない「原罪」としてキリスト教では教えるわけです。日本人にとっては不可解でならない部分の一つだと思います。
そもそも、楽園に食べてはいけない木の実があることがまず不思議なのですが、そこに悪事をそそのかす悪魔がいるということも、楽園という場所では考えられないことでしょう。日本人からすると、不自然極まりない設定だらけなのです。それが前提となっているために、キリスト教の論理全体が歪(ゆが)んでいるという認識を持ってしまうのです。

(や) さて、「すべての人間が逃れることができない原罪」にとらはれるより、〈諸民族闘争といふ罪〉、〈資産階級格差拡大といふ罪〉から、解脱していくべし。純情な日本民族なら、さう感ずるのではないでせうか。
〈人民がおたがひの健康平和な生活を生産しあふ〉ことの普及により、しだいに、しだいに、生産や思想の全般を調整していく。やがては、行政や統治も止揚していく。これが、マルクスがまだ抽象的にしか考へられなかつた〈諸国家の止揚〉を、より具体化する論理であると、わたしどもは考へます。
〈これからの日本史の開拓〉として。
最後に、わたしどもの未来社会への標語です。

〈生理聖人へ協同〉
生理にしたがふ。
さういふ、聖なる人格へと、
めざしあひませう。
そのやう協同させていただきます。

〈根源性〉

(や) あけましておめでたうございます。
年頭から、いきなりですが、法律とか、国家といふものが、もっとも根本的なものなのか。それから解脱していく〈狭き門〉もあるのではないか。わたしが若いころから、何度も読み返してゐる、ヨガの沖 正弘師の『ビジネスマン幹部のための菩薩道入門ヨガ総合健康法(下)』(竹井出版1980年) に、さりげなく、こんな〈根源性〉の発言もあります。

(『菩薩道入門』71~73ペより) ひと口にいえば、人間教育の眼目は、法律なしに、人間社会の秩序と自由を保ちうる人間性をつくりあげていくところにあるのです。法律によらなければ、社会秩序が保てないとは、人間悲劇といわずして、なんといえるでしょうか。いうまでもなく、人間は社会的生活者です。人間には、おたがいに協力しあって、社会全体のバランスをとるという使命感があります。このことを意識的に心がけることが、人間性の尊さなのです。
私は、この能力のことを“愛”と呼んでいます。
人間には、他をも自分と思って生き、他の自然の働きのように、自分を他の中に埋没する本性があります。日光や空気のように、自分を他人の中に溶けこませて生きることです。私にいわせれば、この自他一如の生き方が奉仕生活であり、宗教的生活なのです。他のためにつくすことによって、おのれも生きる。他を生かすことによって、自分も生かさせていただく。
このように、自分の全部を他のために投げ出し、無我無心の状態になるのが、自然の道であり、自分のほんとうの心である、と思います。
私は、道場の人たちにいうのです。どうしたら、自分で自分の生活を守ることができるか、といった狭い自己愛をもつより、他に守られて生きていく工夫をなさい、と口癖にいっています。そうすれば、他を守った程度に自分が守られるのです。他に利益をあたえた程度に、自分にも利益があたえられるのです。他をよろこばせた程度に、自分もよろこばせてもらえるのです。他を救った程度に、自分も救っていただけるのです。これが、心のバランスを維持する法則です。
もう一歩、考えをすすめてみましょう。逆に、困ろうと思っても、他の人が困らせなくなったら、はじめてそこに、まことの自由生活がはじまるのです。
そこで、現実に、自分が困ろうと思っても、社会全体が困らせないような自分となるためには、他につくすことだけを考えることです。そして、奉仕生活のできる人間になるために、健康と知性と情操とが必要になってきます。これが“悟り”の境地で、そのために勉強と修行が必要になるのです。

(や) 諸民族闘争や資産階級闘争から解脱し、野性社会たる健康平和社会を創出していく。少しづつ、少しづつ、少しづつでもよいから、おたがひが尊い人格を顕していくやう、協力させていただく。この〈求道(ぐだう)実行〉なくして、どんな宗教も、どんな思想も、有意義でありうるでせうか。

9名の師

(や) 中村 哲医師は、なぜ、死なねばならなかつたのか。わたしどものこころにも、ひとつの空白が生じました。
人間社会のひとりひとりが、他のすべてのひとりひとりの、健康平和な生活ため、無理なく、無駄なく、協力させていただく。そんな理想の日常を、少しづつ、少しづつ、増やしてゆきたいものです。
今日の山田 学に至るには、9名の師に学び続けてまゐりました。これからも、学び続けてまゐります。それら9師に対する、今の社会的な評価は、むしろ、低いです。なぜなら、〈未来への師たち〉だから、です。
生活から、社会へ、の順にご紹介します。
沖 正弘師 (健康平和の問題)→山田俊郎師 (野性復興の問題)→川喜田二郎師 (情報整理と、民族の、問題)→庄司和晃師 (教育の問題)→高橋五郎師 (情報戦の問題)→吉本隆明師 (芸術の問題)→渥美俊一師 (流通の問題)→三浦つとむ師 (生産変革の問題)→滝村隆一師 (国家の問題)。
沖 正弘師 (1919~1985) に、学びました。人間の目的は、結局、おたがひの健康平和な生活、それを、生産しあふこと。
山田俊郎師 (1926~1996・わたしの実父) に、学びました。東洋と西洋の接点たる、生理と物理の接点たる、〈TQ処理装置〉(氣功の工業化) を、継承しましたが、今までの生理学や物理学について、残念ながら、その一面性こそが、自覚されました。
川喜田二郎師 (1920~2009) に、学びました。諸民族調和への、情念を。また、渾沌とした書類から、秩序ある発想へ、「KJ法」といふ技法も、学びました。
庄司和晃師 (1929~2015) に、学びました。前代 (江戸以前) の常民による、保育や教育の善い面も、復興すべし。
高橋五郎師 (1940~2017) に、学びました。金塊と戦争と原爆などの、極悪非道な、実相について。
吉本隆明師 (1924~2012) に、学びました。日本文芸の伝統と創造について。
渥美俊一師 (1926~2010) に、学びました。民間の販売革新 (ネット通販やチェーン・ストア) の遠い延長線上にこそ、〈地球公会の指導部〉、それが、成立しうるか。
三浦つとむ師 (1911~1989) に、学びました。あらゆるものごとの、区別と連関。それを、解明していく〈矛盾論理学〉(いはゆる、弁証法)。これこそが、情報の整理と、社会の組織の、礎(いしずゑ)なのだと。
滝村隆一師 (1944~2016) に、学びました。国家は、そもそも、部族間で、民族間で、闘争するための組織なり。のち、貧困層の不平不満を、調整する組織ともなつた。

そしてわたしの標語は、闘争から調和へ。人間社会の、数千年ぶりの大転換… 健康平和を研究する会議を、ここ日本列島からこそ、はじめよう。それを、〈縄文るねっさんす〉と呼びます。
縄文時代からの、生活や生産を、ふりかへる。それが、各地方の元気の、源(みなもと)となりはしないでせうか。
日本民族は、残念ながら、ITが、弱い。が、純情だから、 (IT関連が成熟し、次は、情感や情念こそが問題となる) 何十年後かに、希望なのです。
ITは最終的には、コンテンツ (記録内容) が、最重要。なら、先回りし、〈学問と規範と祈りと芸術と養生の中心〉。さういふ、ウェブ・サイトこそを、構築しよう。
以上の想ひにて、JOMONあかでみぃサイトを、少しづつ、少しづつ、建築してをります。

発言を代理

(や) こんなところに、日本国民の自殺行為があつたのか! わたし自身、無知を恥ぢてをります。欧米が40年前に放棄した誤りを、日本国は、その誤りをこの40年間、むしろ強化してきてしまつてゐる… 出産・保育の方法について、です。西原克成先生の『病気知らずの子育て~改訂版 忘れられた育児の原点』(冨山房インターナショナル2017年) をぜひ、深くご検討ください。わたしは、この本に学び、 (むろん、まだ発言能力の無い) 日本国の胎児・乳児・幼児の発言を、代理いたします。

日本国の、産科医や、小児科医の、先生がた。
厚生労働省の、お役人の、方がた。
保育士の、先生がた。
まだ、出産や子育ての本能を、失つてはゐない。
さう、信じたい、
お母さまお父さまの、方がた。
みなみなさまは、あくまでも、善意にて、
結果として、
ぼくたちわたしたちを、ある意味、
〈虐待〉してゐることには、
なつてゐませんでせうか。
ぼくたちわたしたちは、結果として、
いのちの自然として、
みなみなさまに、
さまざまな、異常現象を、
お伝へしてをります。
それにつきまして、
ぼくたちわたしたちに、
責任といふことが、
ありますでせうか。
1945年8月15日から、74年。
終戦。
すなはち、人間社会から、戦争そのものを、無くしたい。
その想ひは、日本社会にて、強烈です。
でも、日本国は、実に今でも、
いはば、別の意味にて、敗戦しつづけてゐる。
のかな?
たはむれに、
〈赤ちゃん反撃党〉なる政党でも、
想ひ描いてみますか…
人間の解放。
さう言ふなら、まづ、
胎児と乳児と幼児の、解放。

〈修業〉

(や) 富国強兵や、殖産興業が、日本民族の最終目的ではありません。
日本列島においてこそ、諸民族調和や、資産階級循環や、野性復興への道を、創始する。
これが、日本民族の新たな誇りであり、希望です。いはば、諸民族調和への〈中央民族〉です。
先進国人は、〈さまざまな社会環境・自然環境に健康平和に対応する修業〉が、不足してゐる。ので、生体防御力が低下してゐるのです。さまざまな社会環境・自然環境に健康平和に対応する、〈生活=姿勢動作・呼吸・食事と排泄・人間関係 (とくに、異性関係)・精神・生活環境〉へ、自身の生活を、四六時中修正しつづける。さういふ、〈修業〉が、不足してゐる。かういふ〈修業〉を、事業としてあるいは企業として、どう普及しあふか。
が、先進国の病的社会環境・自然環境に健康平和に対応できず、病的戦争に適応してしまつてゐる (=病態化してゐる)、先進国人 (受精から死まで) も、多い。いはば、〈先進社会中毒〉です。
さまざまな流通業が発達しつつありますが、理想は、〈健康平和社会へ接近していく流通〉ではないでせうか。すなはち、ひとりひとりが深く病態化しない、〈養生の教養や栄養ないし休養手段・労働手段など〉が必要充分に流通する、健康平和社会。いはば、購入する「豊かさ」から、養生する〈豊かさ〉へ。与へられた社会環境・自然環境にて、からだとこころの健康や、こころと社会の平和を、養生する〈豊かさ〉へ。
健康平和な〈生活=姿勢動作・呼吸・食事と排泄・人間関係 (とくに、異性関係)・精神・生活環境〉として、体内ないし生活から異化すべきものごとを、ひろい意味の〈毒〉と呼ぶことにします。生活ないし体内へ同化すべきものごとを、ひろい意味の〈薬〉と呼ぶことにします。何が〈毒〉であり、何が〈薬〉であるかは、実は、ひとりひとりの個性別なのです。ひとりひとりの〈受精からの生活履歴個性〉により、〈毒〉か〈薬〉かが、きまるのです。また、個性別に、〈毒〉を解毒し〈薬〉に転化する、方法ないし生理もありませう。ですから、ひとりひとりが自立し協同しあふしかありません。
健康平和生活への道は、個人への個別対応と、ある民族への特殊対応と、人間社会への普遍対応とが、あるのです。
人間社会 (地球公会) の目的は、生産の改善・改革・変革です。すなはち、全人民おたがひの健康平和生活を、より高品質にてより低費用にて生産しあへる、生産の改善・改革・変革です。これを通してこそ、諸民族間闘争ないし諸国家間闘争を、未来において、解消していけます。ひとりひとりが自身の生理を信頼し、病的戦争社会を修正していきあふ。さういふことです。そしてその先にまた、未来において、〈地球公会としての宇宙人対応〉もあるでせう。

社原病

(や) トランプ大統領による諸外交や、国内の参院選など、何か大きな節目のやうでもあり、注視が必要です。さういふところへ、「川崎市20人殺傷事件」などが、人びとの耳目を奪ひました。「個別の特異事情」のみには帰せられぬ、深い問題もありませうか。
今は、チェーン・ストアやインターネット通販などがこれだけ発達しても、昔の素朴な日本社会に比べ、養生のための教養や栄養が、かへつて乱れてゐるのではないでせうか。人びとのからだとこころの健康や、こころと社会の平和を、素朴に養生することが、かへつて楽でなくなつてゐる。かういふ時、国家としてのGDP向上へ人びとの注意を向けようとしても、的はづれの感があります。たとへば、今回の川崎市事件の容疑者は、資産家の親族のやうです。
さまざまな商業者やマスメディアなどは、それなりに善意なのでせうが、結果として、いはば〈社原病〉と呼びたくなる情況が、生じてゐます。〈むしろ社会が原因となつてゐる、からだやこころの病気〉です。かういふなか、家族内や親族内のみに、健康や平和への責任を押しつけることは、無理が生じはじめてゐます。家族や親族を基本とする、日本民族のあり方にも、一定の見直しが必要となつてゐませう。
わたしどもが、以前から思ふに、家庭といふものを、必ずしも血縁関係のみにとらはれない、意図的な〈協会〉として、考へ直すべし。家庭とは、〈恋愛・出産・保育・教育といふ、特殊な労働と、生活の休養面のための、協会〉です。また、同好会とは、〈職場の分業労働を修正する、保健的な労働や、分業認識を修正する、保健的な認識のための、休養協会〉です。また、職場とは、〈人間社会人民おたがひの健康平和生活を目的とする、生産調和体へ向け、自由に創造していく。さういふ、生活の労働面のための協会〉です。
新しい時代を切り拓くといふことは、むろん、さまざまな困難がともなひます。しかし、さまざまな困難に人びとがそれぞれなりに対応することが、この時代に生きる人びとの意義であり、それぞれなりの小さな名誉、ではないでせうか。

快挙

(や) 平昌冬季五輪は、女子スピードスケート陣の躍進など、さまざまな話題がありました。が、何と言つても、男子フィギュアスケートの歴史的快挙。羽生結弦選手を追ひあげる宇野晶磨選手や、ネーサン・チェン選手など。そんななか、羽生選手は前回五輪にて、東日本大震災からの“精神復興”として、金。技能向上に無理があつたのか、選手生命さへ危ぶまれたけがをした、今大会前。それでも可能なことを着実に積み上げた“精神復興”により、連覇の金。男子フィギュアでは66年ぶりの連覇。おまけに、この羽生の金が、冬季五輪通算1000個めの金だといふ。スポーツ医療など日本チームの勝利でもあつたか。
フリーの曲のテーマが陰陽師(おんみゃうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)。五角形や螺旋(らせん)といふ動的図形に注目した人物。東洋文化からフィギュアスケートを認識する勝利でもあつたか。フィニッシュの日本の笛の音(ね)が、わたしのこころに響いた。
羽生選手、宇野選手、ありがたう。おめでたう。

精神状態

(や) 日本国の役割はむしろ、米国と北朝鮮国を対話へいざなふ、外交環境創りではないのか。
いづれにせよ、平和への根本は、冷静沈着な精神状態にあります。
日本列島をはさみ、米国と北朝鮮国の激情のやりとりは、ちと、日本の茶道・華道・俳句道などの環境として、ふさはしくあらぬ。そろそろ、日本のまともな武道精神から成る、情報能力・外交・通商貿易・金融政策と最少限の軍事・治安警察を立ち上げていきませうかの。
正恩(ジョンウン)をめぐみた母は平静か