原発論アンケートTen!!

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原発どうする会本部

新しい日本史観

新しい日本史観

(や) 人間社会全体における生産発達とは区別し、諸民族の芸術や道徳の興隆と衰退について、反省する。むしろ、さういふ方向性にて、わが日本民族史を記述し直すべきではないか。もともとは、西洋美術史がご専門の、田中英道先生が、『新しい日本史観の教科書~正しい歴史に「修正」せよ』(ビジネス社2019年11月) において、さう主張されてゐるやうです。あらゆる歴史観を周到に比較検討し、今の日本社会における日本史学や日本史教育の残念ながらの貧困を、指摘してゐます。
19世紀のヘーゲルやマルクスは、〈必然と意志〉の問題を深く深く考究した、わたしどもの先達です。この点、わたしどもと田中英道先生は、あるいは、根本の立場が異るかもしれません。が、当面の主要問題としては、以下にご説明する理由により、田中英道先生の方向性に、賛同いたします。
人間社会における伝統と創造について、わたしどもによる認識と行動は、かうです。
諸民族闘争の伝統を認識し、諸民族調和への創造を行動する。ただし、ヘーゲルのやうにまだ国家にとらはれてゐたのでは、諸民族調和への創造を行動できない。
人間社会全体における資産階級格差の拡大伝統を認識し、これの縮小創造を行動する。ただし、マルクスのやうにまだ所有革命にとらはれてゐたのでは、かへつて、これの縮小創造を行動できない。
以上のうち、諸民族調和への創造を行動するにあたり、当面の主要問題としてこそ、田中英道先生の方向性に、わたしどもは賛同いたします。諸民族とくに自民族の芸術や道徳の興隆と衰退について、反省しなければ、諸民族調和への創造を行動できません。また、現代の資産増殖競争への思考が、古来のおたがひの健康平和な生活への情感や情念を弱めてゐる面もあり、芸術や道徳の現代における〈衰退〉こそを、反省する。さういふことでもあります。
なほ、19世紀以降に流行した歴史学が、各民族内に同様の発展図式があるかに誤解し、現象認識についても構造認識についても、かなり不毛な議論となつた根因は、意外にも、マルクスの盟友であつたエンゲルスに、あるやうです。ヘーゲルやマルクスの関心は、決して、各民族内それぞれの歴史ではなく、人間社会全体の歴史たる〈世界史〉でした。

(滝村隆一『国家論大綱 第一巻 上』勁草書房2003年・337ペより) …彼 (註・エンゲルス) の発展史観への方法的無理解は、後のマルクス主義者たちに、決定的ともいえる学的・理論的な悪影響を、与えるところとなった。
〈原始的→アジア的→古代的→中世的→近代的〉、という世界史の発展史観が、〈アジア的〉段階を脱落させたうえで、何と、〈これらの発展段階は、あらゆる個別歴史社会において必然的に継起する〉、と解釈されて振り回されたのである。しかしこれは、もはや〈世界史の発展史観〉ではなくて、〈個別歴史的な発展史観〉への曲解と矮小化にほかならない。また、これによって、学的・理論的な方法としての世界史の発展史観は、「歴史学」、正確には個別実証史学の学的方法へとすり替えられ、大きく歪曲されることにもなった。
しかしそうなると、厳然たる歴史的な結果的な事実として、どの個別的社会の歴史的発展をみても、この意味での〈継起的な段階的発展〉を経過していない。…

(や) この意味にて、エンゲルスからの「マルクス主義歴史学」は誤りであつたと、わたしどもも考へます。
さて、わたしどもは、ヘーゲルやマルクスを継承し発達させ、〈必然と意志〉の問題を、かう考へます。
人間の生活や人生には、個人的に道徳の意志があり、協会的に経営の意志があり、将来は、地球公会を発達させていく意志も、あるでせう。さういふ人間の生活や人生は、何に支へられてゐるか。認識理(り)の必然、ないし生理の必然、ないし物理の必然に、支へられてゐます。
山田 学著〈学問本質論〉(JOMONあかでみぃサイト「理念集」画面内) から再録します。

(〈学問本質論〉2ペより) 世界は現象において偶然と意志があり本質において必然がある。世界には主体的から客体的へ道徳と経営と公会発達と認識理と生理と物理といふ分野がある。主体すなはち体内にもとづき病的戦争と健康平和がある。健康平和な現実認識の保育・教育・保健 (の運営・指導)・看護・医療が理想である。諸民族伝統には必然があり諸民族調和へ創造する意志が理想である。個人には受精と生誕から死亡までの物理と生理と認識理がある。

(や) 戦後の日本社会にて流行り、今も日本史教育などに影響力が遺る「マルクス主義歴史学」からは解脱し、ヘーゲルやマルクスをまともに継承し発達させたいものです。
諸民族調和と資産階級格差縮小のために。
ヘーゲルは、キリスト教の哲学的な完成者であり、マルクスは、それへの批判者であつた。わたしどもは、さう観ます。
そして冒頭に紹介した、田中英道先生が、先生の別の書にて、キリスト教について、かう指摘してゐます。

(田中英道『日本人が知らない日本の道徳』ビジネス社2016年・169ペより) …旧約聖書のアダムとエバから罪を受け継いでいる人間はすべて、生まれながらにして罪人(つみびと)だという「原罪」の概念があります。
アダムとエバの罪というのは、旧約聖書冒頭の「創世記」に描かれるエピソードから来ています。神によって最初に創られた人間アダムとエバが、悪魔である蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまい、神との契約を冒したということで楽園を追放されるのです。ここで犯した罪を、すべての人間が逃れることができない「原罪」としてキリスト教では教えるわけです。日本人にとっては不可解でならない部分の一つだと思います。
そもそも、楽園に食べてはいけない木の実があることがまず不思議なのですが、そこに悪事をそそのかす悪魔がいるということも、楽園という場所では考えられないことでしょう。日本人からすると、不自然極まりない設定だらけなのです。それが前提となっているために、キリスト教の論理全体が歪(ゆが)んでいるという認識を持ってしまうのです。

(や) さて、「すべての人間が逃れることができない原罪」にとらはれるより、〈諸民族闘争といふ罪〉、〈資産階級格差拡大といふ罪〉から、解脱していくべし。純情な日本民族なら、さう感ずるのではないでせうか。
〈人民がおたがひの健康平和な生活を生産しあふ〉ことの普及により、しだいに、しだいに、生産や思想の全般を調整していく。やがては、行政や統治も止揚していく。これが、マルクスがまだ抽象的にしか考へられなかつた〈諸国家の止揚〉を、より具体化する論理であると、わたしどもは考へます。
〈これからの日本史の開拓〉として。
最後に、わたしどもの未来社会への標語です。

〈生理聖人へ協同〉
生理にしたがふ。
さういふ、聖なる人格へと、
めざしあひませう。
そのやう協同させていただきます。

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