原発論アンケートTen!!

〈雪月花への核ごみみそぎ〉列島運動

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原発どうする会本部

導きの糸

導きの糸

(や) 沖 正弘師 (1919~1985) のヨガにつき、ある友人から、質問を受けました。個人の修業に偏つてゐる感じがし、沖ヨガが、社会変革については、どういふ立場なのかが、よくからない。
わたしは、まったく逆に、沖師のヨガこそは、もっとも根源からの人間社会変革なのではないかと、考へます。実は、それが根源的すぎるからこそ、生前の沖師自身も、遠慮され、そのことについて、あまり明言されなかつたのではないかと、考へます。が、逆に、もっとも根源からの人間社会変革なのだと、考へてこそ、沖師のあれこれの発言が、よりひろく深く納得できてくると、思ひます。
このあたりを、わたしなりに表現してみます。
人間社会のこの数千年間は、〈不自然〉時代なのでした。諸民族闘争と、資産増殖闘争の、〈不自然〉時代なのでした。
さて、苦しみや悩みといふものは、この〈不自然〉時代の〈不自然〉生活を、実は、ひとりひとりの生理として、修正するために、生じてきました。苦しみや悩みこそを、導きの糸として、ひとりひとりの生理のままに、〈不自然〉生活を、修正すべきなのであつた。
が、この数千年間の、〈不自然〉時代の〈不自然〉思想が、苦しみや悩みに対し、逆の対応をさせてしまつた。
ともかく、苦しみや悩みを、「有つてほしくないもの」とし、それらから逃げることを、すすめた。
すると、〈不自然〉生活を修正するためこその、せつかくの、ひとりひとりの生理としての、苦しみや悩みが、導きの糸として、解放されず、抑圧された。
せつかく、〈不自然〉生活が修正される過程が、この数千年間、抑圧されつづけてきた、といふことです。
この根源論理を納得し、この数千年間の、〈不自然〉思想から解脱(げだつ)し、ひとりひとりの苦しみや悩みを、導きの糸としてこそ、解放する。
ひとりひとりの生理のままに、しだいに、〈不自然〉生活を修正していきあふ。この数千年間の〈不自然〉時代から、解脱していきあふ。
人間社会のこれからは、ひとりひとりの苦しみや悩みこそを、導きの糸とした、〈不自然〉生活修正協同である。
苦しみ悩みにて修正させていただく。
ともかく、この数千年間こそが〈不自然〉であつた。この自覚から出発してこそ、諸民族調和と資産循環の統一人間社会が、しだいに、しだいに、実現してゆくであらう。
もっとも根源からの、人間社会変革なのです。
〈不自然〉生活を修正する生理としての、苦しみや悩みこそを、導きの糸として、それに感謝します。苦しみ悩みに感謝します。
これこそが、この数千年間の〈不自然〉時代には無かつた、まさに〈自然〉回帰への中央の道です。もっとも根源からの、人間社会変革です。
沖 正弘師著には、精神重点のものと、身体重点のものとが、あります。主著は、精神重点の『生きている宗教の発見~だれでも悟り救われる沖ヨガ修行法』(竹井出版1985年) です。上の根源論理は、この主著に、さまざまな表現のし方にて、説いてありますが、これを何十回読んでも、心身の底からは、納得してゐなかつた、わたしがゐます。今回、身体重点の代表書『ヨガ総合健康法~沖ヨガの考え方と修行法(上)』(地産出版1976年) のうち、「第8章 病気活用健康法」なる沖ヨガ独特の章を読んでゐる時、「ああ、結局、さういふことなのだ…」と、心身の底から、納得できたと感じます。1976年に沖師著を読み始めてから、45年が経つてゐる、わたしがゐました。
ついでに、この身体重点の代表書から、さまざま、引用させていただきます。(原文の1行空け部分に*を付しました。) まづ、苦しみや悩みこそが、導きの糸なのであるが、自身に不適のものを感知排除する神経と腺こそが、本来の〈健康〉の本質である、といふ指摘です。

(『ヨガ総合健康法(上)』206~209ペより) 多くの人は「健康」と「病気」の真意を明確に自覚していないようである。たとえば、病気をしないことをあたかも健康であるかのように考えている人があるが、真の健康体とは、内外の刺激を正しく感受し、反応し、要求し、行動できることによって、いつも自然的にバランスのとれる心身の平和状態のことである。この真の健康状態のときには、苦しくても気分がよく、自分の体の存在を感じない無の状態である。存在を感じるのは異常がある証拠である。“無”の心身の状態になる方法は、内外の変動にたくみに調和できる進化した適応能力を身につけることであり、この働きをなしている生体の働きの代表が、神経と腺とである。
これらの働きのことが、生理的にわかってきたのはごく最近のことであるが、ヨギは四千年前にこのことを直観し、ホルモンの方をチャクラ、神経の方をクンダリーニと名づけて、そのバランス行法を完成した。しかも、全身は一つのものとして、関連性をもって協力しあっているのである。
たとえば、目だけが目ではなくて、全身のいろいろなところが目に関連性をもっており、その関連系をナディース (川の意) と名づけており、このナディースが中国に入って、「漢方の経絡」になったのである。
適応能力が正しく働くと、自分に適さない自分を害するものは受けつけないし、たとえ受けつけてもすぐに処理または排泄してしまう。
すなわち、すぐ病気になってすぐ治る体が真の意味の健康体である。いったん異常症状が生じると、なかなか治らなかったり、不適の物を不適の物として感知排除することのできない神経の鈍った体は、健康体ではなくて、実はこれこそ病体なのである。

次に、自分が真の健康状態であるかどうかの判別法を書いてみよう。
真の健康状態のときには、苦しみに会うほどファイトが生まれ、思いのままに自由に動け、常時頭がハッキリしており、安眠し、少食で食物がおいしく、しかも毒物は食べたくなく、悪事はしたくなくて、心がいつも落ち着いており、心身がやわらぎやすらいでいる。呼吸が静かで脈が整っており、働いても疲れず、疲れてもちょっと休むと回復する、等々である。
このように「内外の働き」が正常なのが真の健康体である。内の働きは自律的なものであるが、意識的に訓練すると、この無意識的かつ自律的な働きを意識的な働きにかえて、自己コントロールすることができる。これがヨガ訓練法の特色であって、ヨガによって真の健康体になることができるのはこのためである。
生命の働きが、ほんらい正常性を保つ働きであるのに、どうしてその働きが失調または変調するのであろうか。それは生活の仕方によって、この能力の性格が条件づけられるからである。

動物は全身を平等に使って生きているが、人間は部分的に使う生き方をしており、それが続くとその発達にかたよりが生じ、ゆがんだ不自然体になってしまい、このゆがみが固定すると、部分的に疲れやすく、回復しにくい部分をもった慢性疲労の体になってしまい、この異常回復運動としての病的症状が起きるのである。
縮んで (こって) いれば痛み、硬化したままでゆるむと麻痺してしまい、この異常状態に、どのような血液の内容と心の方向と生活の仕方が加わるかによって、いろいろな違った症状が生じるのである。
このゆがみの癖を筋肉と骨格の面から修正するのが修正呼吸体操であり、血液の面から修正してゆくのが修正食事法である。
ゆがみが固定している間は不自然体であって、不自然体のままで心身を使うと、無理でないことが無理なものとなり、毒でないものが毒になってしまうのである。
姿勢の面からいう自然体とは、全体が中心 (ウディヤナ・丹田) に統一されて働いている全身的協力体制である。このときには全身が平等に協力しているので、安定度が高い。この中心点を軸とした姿勢で行動できる体をつくる目的で訓練するのが、ヨガの各種訓練法である。

食物の面で考えてみよう。動物は自然のまままに生食または全体食をしているために、自然的にバランスのとれた栄養をとっているが、人間は加工食によって味覚を変調または失調しているために、自分に適さない質や量を食べてもそのことに気づかないし、このために生じた血液成分の不足やかたよりが、病気を作り出す第二の条件となっている。
あなたが食生活の面で正しいか否かの判断法を教えよう。「空腹が気持ちよくなる」のが正しいのであり、このことは断食してみればわかる事実である。
呼吸の面で考えてみよう。動物は自然呼吸すなわち胸圧と腹圧のバランスのとれた完全呼吸をしているが、人間は肩から上に力が入りやすく、このために重心が上がった胸式呼吸になりやすく、このことが心身異常の第三の条件になっている。
さらに人間は、心が特別に発達しているという長所がそのまま短所になっており、動物の病気は自然的原因だけによるが、人間の場合は心理的原因が大きなウェイトを占めている。
また、動物は病に心のはからいを加えないが、人間は、はからいやテクニックを加えるので、ひどくなったり、治りにくくなったりしてしまうのである。悟ってのみ治ることができるというのは、これらの心害が放下されるからである。

(や) この本質論理に対し、現代の権威とされてゐる医療法は、どうでせうか。
苦しみや悩みといふ、むしろ〈不自然〉生活を修正する、導きの糸たる、生理。かういふ生理を尊重せず、苦しみや悩みから、逃げさせてゐる、まさに〈不自然〉思想の代表が、まったく残念ながら、現代権威の医療法ではないでせうか。19世紀からの化学の発達などに喜びすぎ、また、薬品として石油資源の利用などにもとらはれ、この数千年間に対する根源論理は、欠けてゐませう。

(同286ペより) 生命尊重の自覚と、その働きにたいする哲学をもたない医療法は、症状に病名をつけて、悪いもの、あるいは否定すべきもの、または不要なものとする見解にたった理論や、テクニックを発達させているが、これはあやまりである。

(や) 〈不自然〉時代の〈不自然〉生活は、病に対するに、苦しみや悩みから逃げるためにも、他物に頼りすぎてきました。そのことから解脱せよと、沖ヨガは説きます。

(同195ペより) 病を治す働きを他物はもっていない。この働きをもっているのは自己自身だけである。また、協力者である他物が効果を発揮できるかどうかを決めるのも自己自身の能力である。この自らの力を高め、整え、強める方法は、自然法則に従った生き方の工夫と努力をすることである。どのような環境の中で生きていようとも、どのような病名をつけられようとも、訓練によってバランス維持回復能力を高めていれば、いつでもどこでも健康を保つことができ、治ることができるのである。
自然法則に従う訓練とは、変化刺激、バランス刺激、安定刺激の三訓練を行なうことである。

(や) ひとりひとりが、苦しみや悩みこそを、導きの糸とし、生理のままに、〈不自然〉生活を修正していく過程は、実は、個性別となります。

(同201ペより) 安定している状態とは、生命力が最高に発揮できる状態をいい、この生命力が最高に発揮される道は、自分に合った生き方をすることであり、このときに安定感が得られるのである。つまり自分に合った寝方、自分に合った歩き方、自分に合った食べ方、自分に合った仕事の仕方、自分に合った動き方をしなければならないのである。
(同182~183ペより) どのような訓練法でも、それが自分に合ったものでなければ効果は生じない。他人の健康法は自分の健康法にならず、自分の治療法も他人の治療法とはならない。たとえば、自分にとっての栄養物は、必ずしも他人の栄養物ではないのである。つまり、自分に合わないもののなかに特別のよい訓練法があると思うのは間違いである。世に多く出ている医療法、健康法、訓練法、食事法などは、この点、すべての人に同一の効果があるかのような誤解をいだかせる罪を犯している。
ではどのように、自分に合ったものを発見すればよいのか。このことを自分に知らせてくれるものは、自分自身がもっているものであり、その教え主が「呼吸」であり「脈」であり「気分」である。すなわちそれが自分に合っていれば、呼吸が楽であり、脈が整っており、気分がよいのである。

(や) 今の学問は多く、化学成分にとらはれた、一知半解です。食事なら、まづ、食前から食後までの全過程に注意し、食物の化学成分は、最重要問題ではありません。また、人間の生理の絶妙さに対し、人間社会の化学や物理学などが追ひついてゐない、未知の面も、実は多いのです。

(同171~172ペより) …栄養は、食物の加工調理法と、食の前中後の心身の条件によって、その効果に相違が生じるから、食べ方とその順序がたいせつである。…
(中略)
…食物は、最初口に入れた瞬間こそがたいせつなのである。それはよく?むことで、脳への報告が正しく行き、正食がわかり分泌がよくなり、少食ですむのである。のみ込んだりすると、身体によくないものでも食べてしまう。ヨガの食べ方は、拝む心で、深く整った息で、ゆっくり長く食べることである。

(や) 人間社会のこれからにおいて、沖ヨガこそは最重要文化であると、わたしどもは、考へてをります。

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