原発論アンケートTen!!

〈雪月花への核ごみみそぎ〉列島運動

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原発どうする会本部

〈再発見〉?

〈再発見〉?

(や) わたしが20歳のころから学び続けてゐる、ヨガの沖 正弘師の著作のうちでも、この著のこの部分は、何度も読み返しました。『ビジネスマン幹部のための~菩薩道入門~ヨガ総合健康法(下)』(竹井出版1980年) の「人生に“憂い”を持とう」といふ、どういふこと?と想ひたくなる題名の章です。

(『菩薩道入門』64~67ペより)
私の好きな漢詩を紹介しましょう。
「生前百(ひゃく)に満たず、つねに千載(せんざい)の憂(うれ)いを懐(いだ)く」
つまり、人間の一生は永くても百年には容易に達しないが、その短い一生の間、いつも千年にわたる憂いを心に抱いて過ごす。人生は短く憂いのみが永い、という意味です。ここでいう憂いとは、悲しい事柄、心配ごとと思ってください。
中堅幹部の諸君は、自分の歩んだ人生をふり返ってみましょう。誰にとっても、人生は憂いの連続で、いつになっても、悟りの境地に達することはできません。生きるということは、平坦な道でないからです。
私は道場の人たちに、頂上のない坂道を巡礼のごとく、とぼとぼと歩き続けているのが、人間の真実な姿である、と説いています。明治の歌人、若山牧水は人間の生きざまを一首に託しています。
幾山河越え去り行かば淋しさの
涯なん国ぞ今日も旅行く
人生に終着駅はありません。一国の宰相、大企業のトップがいくら権勢を誇り、成功を謳歌しても、人生の憂いから解放されるものではありません。これから解放されることは、“死”を意味しているといってよいでしょう。
私は、この憂いのほんとうの意味は、自分の心を高める探究心であると思います。そして、この探究心こそが仏性を開発する、第一の修行法なのです。ここから、精神文化が出発するのです。牧水は、この境地をうたっているのです。人間性 (精神) の啓発に終着駅はありません。
これを認めない人は、うぬぼれの強い、心の貧しい人だ、と断定してよいでしょう。私たちは、人生の憂いと対決しながら、生き続ける宿命を背負っているのです。
私は、人生の憂いに打ち克つ方法として、自分で自分にノルマを課す生活を始めました。それまでの私は、自分につごうの悪いことや、性の合わない人とは、何とか避けて通ることばかり考えていました。
しかし、ふとしたことから、避けて通りたい問題や人間に対応していくことが、自分に課せられたノルマであり、求道の精神であるのを知り、大きな勇気を感じました。つまり、気にかかる問題や人間が存在することは、自分をいじめるためにあるのではなく、私の内にひそむ仏性を開発してくれるのだ、困らしているのではない、それは、私の仏性開発の試練としてあたえてくれるのだ、と思うようになったのです。
そうすると、いままでいやだと思っていたすべてが、逆にありがたい存在だと思え、敵に見えていた人までが、自分を啓発してくれるように思えてくるのです。そしてまた、自分の“我”をおさえ、すべてのものと和合し、良きものと解釈し、かつ良きものとして活用する。これが相手を生かす方法であり、相手を生かしたときに、私自身も生きることができ、私の価値が高ければ、相手の価値を高めることができる、と考えました。
このように、人生の憂いの根源は他との和合をきらい、他の存在を認めぬ独断にあるのではないか。“我”を克服し、他を自分の人生に活用する能力こそが、仏性のそもそもの開眼なのです。これを、私は無条件の心、打算のない心、空の境地、つまり信仰心と呼んでいます。
要約すれば、信仰心は全肯定の心をいうのです。何事もそのまま受け取る心です。物事は、成るようにしかならないのです。自然は、必要なものしか生じさせません。不必要なものしか滅亡させません。こうした自然の道理をわきまえず自分勝手に、もう少しこうなって欲しいとか、自分の願い通り物事が成って欲しいとか、成り行きを無視して邪念を抱くことから、人生の憂いや迷いが起こってくるのです。
「存在するものは、一切が合理的である」
唯物弁証法を唱えたエンゲルスが、こう喝破したことは興味深いものがあります。

(や) 沖 正弘師は、戦前の陸軍の特務機関の方でした。戦後、ひろく深い反省において、マハトマ・ガンジー師の平和思想を学び直しました。とは言へ、1980年当時の政財界などの幹部に向けて書いたと思はれる、この著作において、エンゲルスを肯定的に評価してゐることは、かなり意外です。
後年、わたしが沖 正弘師の講話を直接、聴いた際、「おれのことを共産党だと、噂する者がをる。何かに反対する人間は、すべて共産党なのか…?」といつた発言があつたかと、記憶してゐます。「噂する」人たちは、あるいは、この著のこの部分も、意識してゐたのでせうか。
今の政財界などの幹部において、沖師の師のひとりである、中村天風師については、かなり話題となつてゐるやうです。が、沖 正弘師については、むしろ知らない方がたも多くなつた。
沖 正弘師の思想が、すべてに目配りする、ひろすぎる、深すぎる、重すぎるものであつたからではないか。わたしは、さう判断してをります。
が、まうすぐの時代の巨大な困難こそが、この沖ヨガを〈再発見〉してゆくのではないか。さうとも、予想してをります。

 

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